〈渡辺徹さん死去〉極貧の少年時代、一念発起して家を建てた父、その家で新妻の榊原郁恵は「夏のお嬢さん」を歌った から続く
俳優でタレントの渡辺徹さんが敗血症のため都内の病院で死去していたことが、12月2日、わかった。61歳だった。11月下旬より細菌性胃腸炎と診断され入院後、敗血症を発症したという。
歌手の榊原郁恵さん(63)とおしどり夫婦として知られていた渡辺さん。渡辺さんが「 週刊文春 」に自らの人生を語った記事を公開する。(初出:週刊文春 2015年1月15日号 年齢・肩書き等は公開時のまま)
〈全2回の2回目。 前編『〈渡辺徹さん死去〉極貧の少年時代、一念発起して家を建てた父、その家で新妻の榊原郁恵は「夏のお嬢さん」を歌った』 を読む〉
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“演劇界の東大”の文学座に合格。当時は親は大反対だった
わたなべとおる/1961年栃木県生まれ。高校卒業後の80年、文学座研究所に合格。翌年に「太陽にほえろ!」のラガー刑事役で人気を博す。以降、テレビを中心に俳優業だけでなくバラエティ番組でも活躍中。2001年に第26回菊田一夫演劇賞を受賞。妻はタレントの榊原郁恵。
渡辺徹 ©️文藝春秋
高校は茨城県立古河第三高等学校へ進む。3年間、生徒会の活動をメインに学校生活を送り、生徒会長を務めたことが、俳優の道に進むきっかけとなった。
生徒会では、それまでにない新しいことをやりたくて、県を巻き込んだイベントをやりました。大変なんだけど、一緒に戦う仲間ができたし、イベントに来て感動してる奴もいた。それで皆で何かをクリエイトすることの楽しさを知ってしまった。それまでは何となく弁護士を目指してたんですけど(笑)、クリエイティブな仕事をしたいと思うようになったんです。
ちょうどその頃、3カ月だけ通った英語塾の先生がアマチュア劇団の主宰者で、遊びに来いと誘われたんです。行ってみたら、みんなに歓迎されて、小道具作りを手伝わされたり、人が足りないと通行人をやらされた。そして、いきなり主役をやれと言われたんですよ(笑)。そしたら初めて老人ホームの慰問で演じた『一本刀土俵入り』が受けてね。おじいちゃんおばあちゃんが泣いてるわけ。それで演劇に興味が湧いて塾の先生に相談したら、「どうせやるなら『演劇界の東大』と言われる文学座を受けてみろ」となった。親は大反対ですよ。特に親父は、自分が不安定な仕事をしてるから僕には堅実な道を歩んでほしかったんですよね。
見事、難関を突破し、文学座に合格。最初は自宅から通っていたが、芝居の稽古で夜中になることもあり、半年後には練馬の上石神井に部屋を借りた。駅から徒歩15分、家賃1万円の風呂なしだった。
最初に住んでいた松原町の長屋にそっくりで、隣の部屋とはベニヤ板一枚。生活は厳しくて、舞台の裏方の仕込み、バラし、搬入のアルバイトの他に小学生の家庭教師もやってました。教えるのが面倒くさくなってよく物差しで叩いてましたね(笑)。
それから1年後かな。『太陽にほえろ!』の新人刑事・ラガー役に抜擢されたのは。「エエーッ!」って。だって、小学校の時から『太陽にほえろ!』の大ファンで、オンエアをカセットテープに吹き込んじゃ台詞を覚えて土手で暗くなるまで「太陽にほえろ!」ごっこをしてたんですから。決まった時は、180センチ90キロで、少しぽっちゃりしてたんです。そんな小太りの刑事が頑張って走るのが面白いってことだったんですね。ただ、僕は大プレッシャーでしたから、まず体力仰天をつけなきゃ、と朝晩10キロ走り込んだのと、撮影に臨む緊張感から60キロ台にまで体重が落ちたんです。この頃が人生で一番痩せていました。
現場では、ボス(石原裕次郎さん)もゴリさん(竜雷太さん)も自分の子供みたいな若い奴が来ちゃったからどう接したらいいのかわからず戸惑ってましたね。ただボスは子供がいなかったし、親か父と同い年だと知ってすごくかわいがってくれました。だけど、かわいがり方のスケールが違って、家を新築して引っ越す時に前の家をくれるっていうんですよ。部屋が十何個もあるプール付きの成城の大豪邸じゃないですか。「いいんですか」って言ったら、「生活にかかるものは自分で払えよ」って。もう浮足立ってたら、ボスの運転手さんから「やめたほうがいい。電気代だけで月400万かかるよ」と言われてやめました。
妻・榊原郁恵は「一番必要な人」
郁恵さんとは23歳で出会い、3年後に結婚。アイドルには興味のなかった渡辺さんだが、郁恵さんは唯一好きで部屋にポスターを貼っていたという。ドラマで共演したのをきっかけに交際に発展する。
女房には下心がなくて何でも話せたんですよ。「ゆうべ六本木に飲みに行って、こんな女の子と知り合ってさ」と女の子の話をしては「最低!」と言われてた(笑)。手の内を全部知られちゃっているんだけど、その分、いつの間にか僕には欠かせない一番必要な人になってしまったんです。
結婚した時は、女房のおふくろさんの住んでいるマンションの違う階に部屋を借りました。そのとき女房に「俺はこれから3回家を建てる」と宣言したんです。そして、結婚して3年後の90年4月に世田谷の砧の百坪の土地に家を建てた。やっぱり生まれ故郷に帰るではないですけど、『太陽にほえろ!』の撮影所の近くなんですよね。その頃お世話になった行きつけのトンカツ屋とか中華料理屋がある砧商店街には知り合いも多くてホッとするんですよ。
そろそろ二軒目を建てようと思って女房に相談したら、「もっと都心がいい」と言うんです。でも、俺の中ではボスが住んでいた成城に家を建てたいという目標でモチベーションを上げていたんで、次はやっぱり成城だ、と。
80年代から現在に至るまで、俳優業のみならず、CM出演やバラエティ番組での司会など、幅広い活動を続けてきた。そして2004年3月には42歳にして念願の二軒目を建て、現在も義母と2人の息子の5人で暮らす。地下一階にシアタールームを備えた120坪の大豪邸である。
シアタールームは最高のものを作りたかったので、映像と音響、そしてそれを制御するコンピュータと、3つの専門家のチームを作って彼らにすべて任せたんです。そしたら、音響機材だけで3000万、映像機材で11000万、その他にも防音壁やライト類、特別なケーブルとかで、べらぼうな金がかかりました。
二軒目の家は一軒目の反省を生かして“外ヅラ”と“内ヅラ”というのをテーマにしました。つまり、人をもてなす部屋と家族がくつろげる部屋をきちんと差別化したんです。だから、応接間はホテル風にして暖炉があったり、僕が一目惚れして買った前田青邨(せいそん)の『紅白梅』の絵と女房が気に入って譲ってもらった鉄のデカいオブジェが置いてある。そういう我儘な空間は完全に外ヅラです。一方、内ヅラの奥のリビングには僕の趣味の将棋関係のものが置いてあったり、いつでもゲームのできる場所がある。
今は三軒目を建てたいと目論んでいます。これは自分への言い聞かせや励ましなんですよね。やはり親父が家を建てると宣言した時の、あの頑張りようは衝撃的で、尊敬に値することでした。だから、僕にとっても家を建てることが、働くモチベーションになっちゃうんです。
(取材・構成 大西展子)
(大西 展子/週刊文春 2015年1月15日号)